写真家「所幸則」とその周辺

JaM

2009年05月31日 11:54

小生ブログに何度も登場する

写真家「所幸則」氏

写真月刊誌CAPA6月号
に新作と記事が出ていた
記事の内容は「ソニー α900 × 所 幸則」

数名の作家が、愛用のカメラとレンズで極上の写真を撮る、という特集の中で、
彼の「渋谷1secシリーズ」が、作品の技術レポートとともに紹介されていた


誌上では、彼が昨年、突然のように発表した「渋谷1sec(1秒)」というシリーズの新作も掲載されていたが、また新しい渋谷が掘り起こされていて、
誌面で見ると、彼のホームページで見るのとは大きく質感も違い、
さらにどんと迫ってくる、いい臨場感だ、
新作を作る勢いも、正直、留まる所知らずといったところか、


誌面では取材っぽい記事と、所氏の出し惜しみしない性格のせいか、作品製作における技術面が随分クローズアップされているのだが

これについては「1sec」に感化され触発されたカメラマンは、どんどんと真似をしてみてはどうかと思う、
面白いと思えば真似をし追いかければいいと思う、

音楽家が同じ楽器を弾いても同じ音が出ないのと同じで、
それぞれ個々に特色のある
「何か」や
「らしきもの」が
具現するのはずだ、どんどんやるべきだ、


この所幸則作「1sec」シリーズは、
写真界におけるエポックメイキングであり、
ある種の「発明」に近いと感じてきた


写真の「記録性」という普遍なる重大課題が、

このシリーズをきっかけに「記憶性」といった言葉で

少しぶれてくるとさらに面白い


これが写真の「進化」なのか、

あるいは別の遺伝子を獲得して「分化」していくのかを考えるのも楽しみだ



普通、写真の記録性というものには、
写真を撮る側と
写真を見る側のそれぞれに

「記憶」というおまけがついてくる、
おおよそ個別に「もれなく」ついてくる

しかし、所幸則氏の「1sec」シリーズの作品中には
「記憶」そのものが映り込んでいる

と、そう思えて仕方がないのだ


何故、彼の作品だけがそうなるのか?

・・・ということを、随分と長く考えてきたのだが、

ある瞬間、分かってしまった


実は、「記憶」という言葉で置き換えようとしていたから分からなかった、

「記憶」という概念を感じながら、「記録」として判断しようといたからだ
(写真を評価する時のいつもの癖だったのだろうと思う)

それらを、一度リセットして、

生物学的、生理的な「人の脳の記憶」という言葉(あるいは科学)に置き換えてみて

それで、初めて分かった


「1sec」シリーズの作品を前にして、
その写真の現場に立っているかのような錯覚や混乱は、
人の「脳」にしてみれば、
ごく当たり前の判断だったということだ

所幸則「1sec」は、

「人の脳が記憶する風景」に近いのだ、

そう、
人の脳がそれらの風景を記憶している状態に、
ごく近い映像だということだ

これまで、「1sec」シリーズにおいて
写真における「瞬間」の概念が変わった、
新しい写真のジャンルが生まれたのじゃないだろうかと、
作品を評価してきたが、

実は、これまでのほとんどの写真のほうが
はるかに人の「脳ミソ」を混乱させてきたかということ・・、

今はそのことが鮮明に分かる


そうした写真鑑賞における「混乱」が
あまりに小生の中で常態化していて、
ある意味、不感症になっていたために、
1secの前で、逆に混乱を引き起こしていただけだ、


たどり着くべき「記憶」に出会った気分だ、

写真家「所幸則」、、やはりタダモノじゃない。


彼の芸大時代の同期には、
榎並悦子氏
松本コウシ氏など

写真を「記憶」で捕らえるかのような
秀逸な仕事を続ける作家がいる


作風は違っても、彼らに共通することがある
それは、撮影現場に身をおく時間の長さ、
通いつめる執拗さだ、

自分の想いを被写体にぶつける時間の長さは、
単なる物理的な時間の長さではない、

「想い入れ」の長さと深さのことだ


よほどの才能と運に恵まれたものでない限り
ちょっとふらつき歩いて出来る仕事ではない


彼らは、、間違いなく、、、写真が好きだな

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